読書会「東皇」について
はじめまして。読書会「東皇」ブログ管理人です。
当読書会では、主に江戸時代の学者による中国古典の注釈を、現代語で解説しつつ、のんびりと読んでおります。
Twitterはこちら。
https://twitter.com/Tou_Kou_dokusho
十年ほど和漢洋の古典に触れ、その普遍性に常々驚嘆している一人の人間が、愛読者や語り合う人を増やしたいという思いから始めたものです。
講義形式ではなく、テーブルを囲んで、お茶を飲みながら語り合いつつ行う会です。古文・漢文は全く読めない!という方でもお気軽にご参加いただけます。
テキストは管理人が原典からPCで打ち込んだPDFを印刷・製本したものをお配りいたしております。
今は「四書五経」のうち、『大学』、『論語』、『中庸』ですが、いずれは『書経』や『詩経』など、日本ではなかなかお手軽に読めないものも手掛けようと思っております。
見学無料です。お気軽にお運びください。
Twitterはこちらです。
https://twitter.com/Tou_Kou_dokusho
―――
読書会開設の理由……
『論語』やら『孫子』やら、そんなに古臭いものを、なぜ今更日本で読むのか?
古臭くないからです。
そもそも「古臭い古典」はあるのでしょうか。古臭いものが2000年も生き残れるわけがありません。時代に通用しないようなものは廃れていくのが、あらゆる書物の運命です。
古典というのは、時代に対していまだ大きな影響力・説得力を持ち続けているからこそ、消滅していないのです。
『孫子』がミサイルのある今の戦争にそのまま使えるわけではありませんし、『論語』に書かれている価値観が21世紀で通用するかというと疑問です。アリストテレスのとなえた天動説に至っては、今では明確に否定されています。
ただ、そういう「時代遅れ」の部分を取り去っても、なおどうしても取り去れない箇所、すなわち「不朽」の要素があるのです。
そして「時代遅れ」を「不朽」と対比させることは、現代の価値観のうち、どれほどのものが5年後、10年後、50年後、100年後……に時代遅れになるのか、ということを考えることに繋がります。過去はその未来のために存在します。
むろん、古典を絶対視することはまさにカビの生えた思考です。
しかし、幾星霜を経て人類を導いてきた古典から現代人たる我々が学ぶべき箇所が多い、というのは事実です。
もちろん古典以外にも、現代、また我々よりも若い世代からも、人間の本質をついた名作は生まれてくるでしょう。ただ、この本の溢れる世の中で、それを探し求めるために割く労力が我々にあるでしょうか。
その労力は、既に評価の定まった古典を読むことよりも小さいものでしょうか。
ベストセラーではなくロングセラー、しかも百年千年単位のロングセラーを読むことが、実は省エネになるのです。
価値がある程度定まったものを、決定版とされる翻訳を頼りにしながら、あるいはそれに反論しつつ読んでゆく……そんな会があってもよいでしょう。
そう思っていたところ、はるかぜ書房さん
にお目にかかる機会があり、全面的なご協力のもと、読書会を開く運びとなりました。
北天に幾星霜を経て動かない「永遠」の象徴、北極星。その異名「東皇」を冠した読書会、ぜひ一度、お運びください。
管理人 識