読書会「東皇」ブログ

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『大学』を読む(002)

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仁義礼智信という人間の本性を十全に発揮した人が世の中に一人でも出たときは、天はその人を人々の指導者・師表として、人々の性質の過不及を整えさせる。

古代の理想的な君主である伏羲・神農・黃帝・堯・舜が社会制度を整え、人々を教育監督したのは、そういう理由からであった。

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一有聰明睿智。能盡其性者。出於其間。(一りも聰明睿智にして、能く其の性を盡す者有りて、其の間に出るときは、)

ここから始まる三段は、古代にこの教えが始まった由来を説く。
【聰】とは、耳がよく、耳にしたことから道理をよく理解することをいう。
【明】とは、目がよく、目にしたものから道理をよく見抜くことをいう。
【睿】とは、思考が徹底していることをいう。
【智】とは、知識として身につけた道理をくまなく理解することをいう。
これらは気質が最高に清く美しい状態である。
【其の性を盡す】とは、つまり仁義禮智の理をよく知り、十全に発揮することである。しかしそれは実際のところ生知安行、つまり生まれながらにしてそれを知り、息をするかのごとくやすやすと行なうような、聖人の才徳である。
そのような聖人が、たった一人であっても人々の中に生まれ出るようなことがあれば、というのが大意である。下段に続く。

 

則天必命之。以爲億兆之君師。使之治而教之。以復其性。(則ち天、必ず之に命じて、以て億兆の君師と為して、之をして治めて之を教へて、以て其の性に復さしむ。)

一万に一万をかけた数字を【億】といい、一億に一万をかけた数字を【兆】という。【億兆】とは、すべての人々のことである。
【君師】とは、君主として統治し、教師として教化する存在のことである。

この知徳円満な聖人がいったん世に出れば、天はこれに命を下して万民の君師とさせ、気質の不斉なる人々を教え導くことで、天が与えた本来の性に彼らを復帰させるということを言っている。
そもそも天とは道理そのものであるから、その命ずる内容も、道理にかなわないものはない。聡明叡智で知徳円満の聖人がひとたび世に出れば、天下の人は必ずその人を尊敬して指導者として仰ぎ、教育者としてその人に学ぶのである。その理が必然であるのは、理たる天がそう命じているからである。
古代において天命を受けて世を治めた聖人は皆、君師の職、すなわち指導者と教育者との役割を兼ねておられた。まずは政治をとり行なって人民を養い、衣食に困らぬようにしてから、教育をしたのである。だから、この序文において教えの法を論ずる箇所では、みな政治と生活の安定とを、それに合わせて説いているのである。

 

此伏羲神農黃帝堯舜所以繼天立極。而司徒之職。典樂之官。所由設也。(此れ伏羲神農黄帝堯天に継いで極を立てし所以にして、司徒の職、典樂の官、由て設けたる所なり。)

【此】とは、【一りも聰明叡智にして……】からここまでの話を総括していう。ここまでは古代に教法が始まった道理を説いていたが、ここではその教法の施行されていた事実を挙げる。
【伏羲】【神農】【黃帝】【堯】【舜】を五帝という。みな聡明叡智、知徳円満にして、よくおのれの性を完成させ、天命をうけて、世を治め教え導きなさった聖人である。
【天に継ぐ】とは、天を代行するという意味である。
【極を立つ】とは、【極】は、物の標準として、それにのっとる手本である。これを【立つ】とは、みずからがその手本となって、人に真似をさせることをいう。天の思し召しというのは、人間をはじめとしてあらゆるものを生じて完成させることである。しかし天の力は、ただ生育するばかりなので、聖人は天命を受けて、天下万物を治め教えて、天の思し召しを成就させるのである。これは子供が父のあとを継ぐようなものなので、天の意図を遺漏なく完成させる人のことを天子とよぶのである。
【司】も、【典】も、つかさどる意味である。徒は民のことで、【司徒】とは、人民を監督し、教育したり公共事業に従事させたりする官職である。典楽とは、音楽をつかさどる官である。職と官とは、いわゆる互文である。
音楽は、天地神人の気を和合させ、人の気質を正しくととのえるものであるので、これも教化にとっては重要である。
五帝というのは上を見れば天にのっとり極を立て、下を見ればには司徒・典楽などの官制を整備し、あまねく人民を教えさせなさった。こういう五帝のような方々が現われたのは、以上のような道理によるのである、とここでは説いてある。
なお伏羲神農黃帝の時の法は現存しない。堯・舜の時は、契という者を司徒に任命し、全ての人に、五倫の道を教えさせ、また夔という者を典楽に任命し、指導者階級の子弟の教育を行なわせた。

編者註:互文とは、「東奔西走」や「日進月歩」のような対句表現の一種である。ここでは「司徒之職、典樂之官」であるが、「司徒之官、典樂之職」でも構わない。
惕齋は「五倫」と言っているが、当時まだ「五倫」という言葉はない。(『書経』舜典には「五教」の語が見えるが、何を指すかは定かではない。『春秋左氏伝』文公十八年には「父は義、母は慈、兄は友、弟は共(恭)、子は孝」とあり、『孟子』滕文公章句上には「父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に序有り、朋友に信有り」という。)ただ惕齋はおそらくここで「五倫」をそういった細かい言葉ではなく、「人間関係の秩序」というくらいの意味で説いているのではあるまいか。

 

(続)

『大学』を読む(001)

ここから『大学』を試験的に連載していこうと思います。

底本は中村惕齋『四書示蒙句解』です。

原文と書き下しとの次に「句解」として、惕齋の解説を意訳して書いています。

記事冒頭には線で囲った「まとめ」を書くつもりであり、また惕齋の「句解」箇所についても、分量が大きい時は、その中心的な箇所に下線を施しました。

かなり意訳となっている箇所もありますので、博雅の士のご叱正を仰ぎたく存じます。よろしくお付き合いください。

また〔※編者註〕とあるのは会主(当ブログ筆者)の補足です。

 

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『大学』とは、古代の教育機関「大学」において学ばれた内容を記した書である。

すべての人間は生れるときに、例外なく仁義礼智(+信)の性質を天(=エネルギー・変化・自然そのものである限りないもの)から授かっているが、そのバランスは人によって偏りがあり、どうにも円満というわけにはいかない。しかし……。

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大學章句序。(大学章句の序。)

句解

大学とは、この書の題である。意味については、のちほど「経」の冒頭で解説する。

章句とは、註釈のことである。ことばの切れ目を句という。一篇の文章の章や句を分割し、その間にことばを入れて内容を説明することから、註のことを章句ともいうのである。

序とは、書のはじめにしるすことばである。序という字は、「緒」すなわち「いとぐち」である。序によってその本全体の趣旨を把握することを、絹糸を紡ぐ際に繭のいとぐちをとって生糸を繰り出すことにたとえるのである。この序は、朱子がこの大学の書の章句をお作りになった由来を述べられたものである。

 

 

大學之書。古大學。所以教人之法也。(大学の書は、古への大学にして、人を教ふる所以の法なり。)

句解

この段は、大学の書の概要を述べたものである。

【古への大学】とは、夏・商・周という三代の王朝において、大学の道を学ぶ学校のことである。大学の道をしるした書を『大学』と名付け、またその道を研究教育する機関をも大学といった。

 

 

蓋自天降生民。則既莫不與之以仁義禮智之性矣。(蓋し、天、生民を降すよりは、則ち既に之に与ふるに仁義礼智の性を以てせずといふことなし。)

句解

ここから始まる三段は、人々はすべて「大学の道」による教育がなされなければいけない理由を説いている。

【蓋】とは、文を始める時に使われる字である。

【天、生民を降す】とは、天の気によって人々が生れることをいう。ありとあらゆる人や物のうち、天の造化のはたらきによって生じないものはない。天は上にあり、人や物は地に足のついたものであるから、天が降すという。【民】とは、すべての人々をさしていう。人はどんどん生れて殖えてゆくものなので、【生民】というのである。

この文の意味は、天が人々を生み出したときには既に「仁・義・礼・智」の四つの性を必ず与えている、ということである。

【性】とは、人が先天的に、心にそなえている道理(=本質的、かつ、そうあるべき性能)のことである。

【仁】は、物をあわれみ、いつくしむ道理。

【義】は、物事の宜しきところ、望ましくあるべき状態について思考判断する道理。

【礼】は、人をうやまい、己はへりくだる道理。

【智】は、物事の是非善悪などを理解する道理。

この四つに【信】を加えて五性という。これはまた木火土金水の五行の理である。

四つの性を五行に配当すれば、仁は木の理、義は金の理、礼は火の理、智は水の理である。信は土の理であり、ただ仁・義・礼・智の四性を持つうえでうそいつわりをしない「まこと」である。この「信」は、仁義礼智それぞれに内包されているから略して言わないのである。

五行を季節に配当した時に、春は木、夏は火、秋は金、冬は水で、土は土用として、それぞれの季節の変わり目に配当されるが、五行を性に配当するのも、四季に配当するのも、理屈は同じことである。

この世界に発生し存在するものはすべて、陰陽の気・五行の気とを受けてかたちづくられるので、必ず気の理(=性質)を具えている。五行の木・火の気は陰陽では陽であり、金・水の気は陰であり、土は中和の気である。このように、五行と陰陽とは不可分である。

人体でいえば、外側には気・血・骨・肉・毛があり、内側には肺臓・脾臓・心臓・肝臓・腎臓があり、頭部には耳・目・鼻・口・舌があり、それぞれ五行の分配がある。それは心についても同様である。

〔※編者註〕儒学における「天」とは、「そら」ではなく、ありとあらゆる物事の発生・発展・結実・完成などの全段階をつかさどる無限の「エネルギーそのもの」「なりゆきそのもの」「変化そのもの」である。世の中に天より大きく偉大なるものがないという考えに立つゆえ、天をその象徴とする。なお天の性質については『易経』に詳しく説かれている。

 

 

然其氣質之稟。或不能齊。(然れども其の気質の稟けたること、或は斉しきこと能はず。)

句解

【然】とは、上文を受けて、「だがしかし」と話題を転換することば。

【気】は、五行の気。

【質】は気が凝集して、形をとったものをいう。

人は例外なく仁義礼智信の五性をそなえているが、天から気質を受け取って生まれたとしても、そこには環境による清濁や美悪といった差異があり、また仁義礼智の性質が多すぎたり少なすぎたりといった不備があり、その比率などは人によって異なっているので、人間の出来不出来、賢いだとか愚かだとかの違いがあるのである。

【或は斉しきこと能はず】とは、斉しくない(=まちまちである)ことがあるということである。

 

 

是以不能皆有以知其性之所有而全之也。(是を以て皆以て其の性の有る所を知りて、之を全うすること有ること能はず。)

句解

人の気質は斉しくなくまちまちであるため、心にそなわる仁義礼智がどういうものなのか知ることや、またそれらを発揮して完全なものとして体現することは、必ずしも全員ができるわけではない。

 

  

(続)

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今は「四書五経」のうち、『大学』、『論語』、『中庸』ですが、いずれは『書経』や『詩経』など、日本ではなかなかお手軽に読めないものも手掛けようと思っております。

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読書会開設の理由……

論語』やら『孫子』やら、そんなに古臭いものを、なぜ今更日本で読むのか?

 

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